語り部から
勧修寺に行ってきました。
母が「よかったよ~、よかったよ~」としきりに言っていて「いつか一緒に行こうね」と言っていたけれど、21日しかやっていないからなかなかタイミングが合わず、そのうちに母は亡くなってしまい。
母のお友達の方から「5月の21日は土日なんで行きやすいでしょう、一緒に行きませんか」とお誘いがあったものの、妹のポカでそのお誘いをスルーしていて、
平日でも休んでいきますよとお返事したら「じゃあ6月か、その次は11月」と言われたらしく、じゃあ6月に行きましょうとなったそうで(以上妹からの話)、
なんかそんな流れを聞くと、行かなきゃいけないような気になりますよね。私有給ないし、大事なイベントが2つもあったし、何が起こってるのかわからなかったから正直気が進まなかったんですが
でも母のお友達から
「明日雨らしいけど決行しますんで(*´ω`*)」
「電話で問い合わせたら手作りのお弁当はもう辞めたそうなんです、前評判だけで申し訳ない。でも大丸あるからお弁当買っていきましょう(*´ω`*)」
「一緒に行こう言ってた共通のお友達は明日行かれへんねんて。ゴメンねぇいうてお土産預かってるから(*´ω`*)」
と、何度も優しくにこやかな電話もろたら、行かなしゃーない(;´Д`)
勧修寺、山科にあるそうです。
同居人に言わせると
「21日、弘法さんのお誕生日や(*命日でした)」
「山科は、取り立てリストに乗る人が多いんやけどなぁ」とのことでしたが
さあ、私と妹と連れ立って待ち合わせ場所の山科まで行ってみると、母のお友達と、そのお友達3人(初対面)がおいでで、合計6人の女デイトリップ。
私と妹以外は私の母の世代で、つまり私たちとは一世代違います。みなさん非常に感じのいい気立てのよい方々で、どういう人たちの集まりかと聞いたら「新聞の投稿欄に投稿してた人たちの集まり」-なんかいろんな会があるもんです(∩´∀`)∩
まあそれだけにみなさん、言葉や季語や風情、人の気持ちなんかに敏感で問題意識も高い方々だったようで。
そしてなんで勧修寺に行くことになったかというと、母のお友達はなんと語り部の活動をしているのだそうです。そして勧修寺の縁の本を読み、感動して勧修寺に連絡して「この話をまとめて語ってもいいか」と許可を取って話をまとめ、話して聞かせているのだそうな。
そして語り部さんのお友達たちは、そのお話を聞いて、「私たちもぜひ一度勧修寺へ行ってみたい」と思っていて、今回行くことになったから話に乗ったそうな。
当日は雨で、でもお庭がきれいで、この時期1週間くらいしか見られないハンゲショウの花を、ちょうどきれいに見ることができました。
今年の半夏生は7月2日で、6月21日は夏至だったんですけどね。そんなのかんけーねー。
このハンゲショウの開花に合わせて、6月と言ったそうです。
次は11月と言っていたのは、11月のお庭がきれいだからだそうで。
別に7月でも8月でも、21日なら本当はなんでもよかったんだけど、どうせならきれいなお庭をみてもらいたいからということで、6月か11月と言ったんだそうな。
そしてなぜ21日なのかというと、
勧修寺には、両腕のない画家である尼、大石順教さんが設立した障害者福祉の団体があり、21日には特別にそこでお話会が開かれるからだそうです。
21日は、大石順教さんの命日であり、そして腕が無くなった事件が起こった日でもあるのだそうです。
そこで順教さんについてのビデオを見、寺の中や作品を案内してもらい、順教さんのお孫さんである晶教さんとお話したりしました。
両腕のない順教さんが、手のある人より上手な絵を書き、20くらいまで字を読むことも知らなかったのに私たちより上手い字を書いていることは、やはり驚愕で、そして障害を障碍者の福祉にささげたその彼女の人生は壮絶で、なかなかに人の心を打ちます。
語り部さんはもう何回か来ているし連絡も取っているので関係者とそこそこ親しかった。
そして特別に、いつもはしない身内の話なんかもしてもらえました。本人たちだけじゃなくておつきの人も言ってたんで本当でしょう。
なかなかに興味深かったので、本、買っちゃいました。
ふおおw
晶教のお友達が書いたブログ記事だよw
晶教さん、60過ぎなんですけどねw
もちろん他にも順教さんの本はいくつか出ているのですが、この漫画は晶教さんの素直な気持ちが出ていて、他の本よりお勧めかも。姪っ子にも読みやすいし。
面白かったな。
来てよかった。
順教さんのことも面白かったけど、そのことだけじゃなくて、
順教さんの話に感動して話をまとめて語り部活動をしているという母の友達の話も面白かったし、
その語り部さんが「お母さんが亡くなってから、どこに行っていいかわからなくて、もうずっと髪を切っていないの」と言ってくれたことがなんだか切なく嬉しく。
母は美容師で、けしてその仕事が好きだったわけでも向いていたわけでもありませんでしたし、私はいい思い出はありませんでした。
母のお客さんたちも母の同年代が主で、もう10年以上前からどんどんお亡くなりになっていってどんどんお客さんが減って行ってたりもしていましたし、
腰が悪くなった母を助けてお客さんたちが自分でシャンプーしたり切った髪を掃いてくれたり、1人暮らしの母にお惣菜を持ってきてくれたり、助けられてばかりだと思っていたのですが
髪を切っている間ってお話するもので、母との会話を居心地よく楽しく思い、他の人では嫌だと思ってくれていた人がいたことが、
なんだかこの世代の関西のマダムの助け合いの気持ちが出ていて
いい関係を築いていたんだなぁと、大阪ハムレットの世界を思い出したり
なんで妹がその語り部さんと知り合いかというと、近所でお茶の教室を個人でやっていて
1か月3回で4千円と茶道にしては破格の値段だったので母も妹もそこでお茶をやり
うちから1分の距離に住んでいた語り部さんもそこで一緒にお茶を習い
そうして地域のマダムコミュニティができていたそうで
新聞の投稿の会の人たちも、本当にいい人たちばかりで
いい関係だなぁと
そこに触れ合えたことが、とても嬉しく
なんだか、オーストラリア時代にヨガに行っていた、そこのover60の親切で気のいいマダムたちや
移民のための英語ボランティア活動を一生懸命してくれていたオージーマダムたちを思い出したりしていました。
マダムたち、いいね。
ちょっと仕事を離れて、ちょっと違う交流をして
ちょっと脳みそをかき回す。